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訃報

私が関西人だからかなぁ。結構ショックだった、心室細動により42歳で急死した亀山房代さんの突然の訃報。

数日前の子供たちの参観時に突然倒れたお母さんが、そのまま脳梗塞で逝ってしまったという出来事があったばかりだったからかもしれない。

長男が幼稚園児の時にも、同じように参観時に倒れたお母さんがいて、そのまま帰らぬ人となったケースがあった。

昨年の春には、私の身近な人も、癌で逝った。





まだ幼い我が子を残し、逝かねばならぬ“母親”の無念さは、計り知れない。

例えばこんなにも育ちきった娘でさえも、母がこの世からいなくなることを考えただけで、その恐ろしさに息が止まりそうだ。


それでも「その日」は、どうしたってやってくる。
おそらくは、そう遠くはない明日に。





親不孝娘は此処だけの話、時折、先に逝ってもいいですか?なんて考えていたりもする。
でもそれは、罰なんてもんじゃない親不孝者だから、貴女を見送ったその後に逝くことは、もはや最低限の“娘”としてのルールであると思っています。

なんてことと似たようなことが、太宰の“斜陽”の中にも記されていて、あぁ、この部分に関しては今も昔も同じなのだなぁと苦笑した次第。







明日は、母の誕生日。

どんな「おめでとう」を、サプライズしようかな。




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贅沢な朝

雨上がりの空はこの時間、ようやく起き出してきたかのような顔をしていて、確か今井美樹の歌に“おはようの顔になる”というフレーズがあったけれど、きっと職場に着く頃にはそんな顔してるんだろうなと思った。


驚かされたのは、お寺のもみじ。春、此処のもみじが色付く秋が楽しみだなと思っていたのだが、世の中が紅葉シーズンを迎えてもさっぱり紅くならないもみじにがっかりしていたのだ。

それが今朝、寺の前を通り過ぎようとして本当に息を呑んだ。なんと一晩で嘘のように真っ赤に染まっていたのだ。

余りに見事なその色づきが灰色の空にかえって美しく映えるので思わず足を止めて見入ってしまい、横を足早に通り過ぎる人の靴音でそうだ出勤途中だったと気づかされた。


私の今年の一等もみじに逢えた、贅沢な朝だった。


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封印




幾度か聞いたその人の言葉は、まるで推敲をしたかのようにいつもひとつの乱れもなく、だからこそきっとその想いはもう、その人の中でとうに煮詰まっているのだろうと思った。


印象的だったのは、敢えて『問わない』のだという言葉。

問えば必ず、問うた相手より、届けられる『答え』がある。

『問わぬ』ということは、その答えを受け容れる心の場所が、その人に未だ、用意されていないということなのだろう。

どのような“答え”が返るのかを、凡そその人が予測しているということであるのだということは、こうして無関係な場所にいる私にすら明け透けであるとしても、其処は気付かないフリをすることが礼儀である、そういうこともある。




誰かを「想う」ということは、なんと頼りなく滑稽で、切なく愛おしい。





出来ればその「想い」が、心を強く、強くするものであることを、願う。














ちょっとした兄弟喧嘩のさなか、次男坊が口走った言葉。


「もうーーー、僕のとっておきの服を引っ張らんとってーー!」



“とっておきの服”



君は一体その表現を、何処で覚えたのだろう(笑)。










一体何なんだ!?な中に、嗚呼と添う、ひとつ。

その ひとつ を前に何処までも広がっていくものは、“線”。

だとすれば、その ひとつ は、“点”だ。




とても利己主義なその“点”を、私はいつまで、この心に、封印しておけるのだろう。





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天命




MISIAの主題歌なんぞより、ずっと深く心に沁みると思っているであろう人はきっと多いに違いない、ドラマ全篇に流れるJIN―仁―の、このテーマ曲が、とにかく好きです。






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テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

物欲

“欲”がないと、よく言われたものだった。

そしてその“欲”の無さが、向上を妨げ、本来ならばもっと目指せるであろう「上」を遠ざけている事が、残念でならないとも。


私の“欲”を駆り立てる為に、同い年の、私ごとき足元にも及ばぬレベルの弾き手を、わざわざに発表会の特別ゲストに招いたピアノの先生の思惑はしかし、ただただ、ゲストのその見事な技巧による演奏を前に、「凄い凄い凄い!」と感嘆の声を上げただけの『私』を前に、徒労に終わった。

迸る才能を前に「悔しい」とも思わない私が、さぞや当時もどかしかったのであろう先生の気持ちは、今になりようやくにしみじみと『分かる』。


それでも今でも、さほど『欲』がない。先日のJIN―仁―のドラマ内で、“坂本龍馬”が“仁先生”の欲の無さを指摘し嘆いていたシーンがあったが、私にも嘆かわしいほどに欲がない。

欲があれば、何かが激しく変わったのだろうか。

望むものが確かにこの手に入ったのだろうか。

私だけの気持ち次第で、どうにでもなるようなものなど、果たしてこの世にあるのだろうか。




それでも、今の私の「物欲」は3つ。


“炬燵”と、“クリスマス・ツリー”と、“Clavinova”


炬燵は子供達にも絶賛され、一日も早い購入を!と待ち焦がれられているのだが、クリスマス・ツリーに関しては長男の、

「もう、“幸せな家族ごっこはやめようよ〜〜”」な一言を前に保留中(笑)。


ベランダに草花薫るガーデニングな状態を「幸せな家族」の象徴のように思っていた長男は、隣家の家のソレと実情との隔たりに、彼なりの何かを感じ取ったのか。

まぁ、ウケを含めた言い回しで放った一言ではあるにしろ、見えない何某に触れることでしか見えない本質があるのだと悟ったのだとすれば、今後に活かしてくれと思わなくもない。





唯一、Clavinovaが本気の物欲として残っている。

毎月、少しずつ積み立てて必ずそのうち購入しようかな、と。



手放してみて、これほどに私の「癒し」に必要なひとつであったのだと改めて思った。

ピアノは高価過ぎる為もう手が出ないけれども、“鍵盤”には触れていたいのだ。心から。これからも。

望む分、望むだけ、望む強さでそれに応えてくれる、私の唯一無二である以上、傍に、傍にいて欲しいのです。













Charles Chaplin / Limelight


10代の終わり、大好きだった恩師に勧められリバイバル上映されていた「街の灯」をスクリーンで観た。泣けて仕方なかったラスト・シーン。

以後、彼の代表作と呼ばれる作品は全て観た。


Limelightは、英語の教科書の教材にもなっていた映画。

当時ビデオも持っていて、もう何度繰り返し、このシーンを観ただろう。

そして多分今ならば、重ねた月日の分だけ、あの頃と視点を違え、もっともっと更に心に沁みて沁みて仕方がなくなるに違いない。多分、この映画が本当に言いたかった事のひとつは、若いころの私には到底理解できない部分であったろうと思うから。



霧に煙るビック・ベン、そしてテムズ河。
それを、この目で確かに見た19の冬の、あの感動は言葉にはできない。

圧巻の、ロンドンの12月だった。




嗚呼、贅沢な、泣き出したいほどに贅沢な時間。

あの類い稀なる時間を、ただのほほんと身を委ね過ごした私に、「阿呆」という言葉を段ボール山積みにして届けてやりたいほどに。


“若さ”そのものが「罪」であると言っていた人がいる。その言葉の意味が、なんとなく分かる、そういう年齢になった。

それでもそれを「罪」であるとは思わない。

若さとはきっとそういうもので、それこそが若さで、そこを失えばそれは若さではなくなるのだ、多分。








先日購入した太宰治の小説は、予想通りにタイムリーで琴線に触れまくって仕方がない。

小説の中の女の浅はかさに似た己が浅はかを前に、幾分雲隠れしたくなる気持ちにさせられはするものの。

可笑しかったのは、読書量が半端じゃない母が、「太宰」の作品を殆ど読んでいないという事実。

試しに訊いてみれば、やはり10代の頃に触れて“好きじゃない”と判断し避けていたのだとか。

今読めば絶対違うと思うから、と勧めてみたものの、母の年齢まで達すればもはや手遅れなのかもなぁと思ったり。



感受性は、いつ、死滅するのだろうか。

一生瑞々しく或る為に、どう在ればいいのだろうか。


なんて云えば、母は怒るだろうか。今も感受性を抱いているに違いない、貴女ならば。







 

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